ふぉーりん・あとにーの憂鬱: 極私的メイン・バンク論リステイトメント (1)

興味深い分析

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neon98さんがシリーズ日本のコーポレート・ガバナンスを考える メイン・バンク論(上) (中) (下)で、Miwa=Ramseyer, The Myth of the Main Bnak:Japan and Comparative Corporate Governance に絡めてメイン・バンク論について検討を加えられています。

三輪=ラムザイヤーといえば、一連の日本型経済システム批判(日本経済論の誤解(2001) 産業政策論の誤解(2002))が有名で、メインバンク論批判も前者に詳しく書かれています。残念ながら、どちらも留学の際に段ボールに詰めて文字通りお蔵入りしてしまったので、手許にないのですが、個別のデータの収集・呈示の仕方には唸るものを感じる一方で、そこから日本型経済システムを全否定しようとする過程には、やや強引さを感じた記憶があります。

ただ、一方でメイン・バンク論というのが、分かったようで分かりにくいのも確かなところです。

特に、メイン・バンク論は日本型経済システム論は、アメリカを完全にoverperformしていた時期に盛んだった議論で、「アメリカと同等のガバナンスが効いている」というのでは足りず、「アメリカよりも優れているのは何故か」という課題をつきつけられていたために、オリジナルのモデルはかなり気負った部分があったような気がします。

最近もメイン・バンク論を取り扱った論文はそれなりにあるわけですが、ほとんどはメイン・バンク論の基本的なインプリケーションが有効であることを前提として、その限界や構造的なバイアスをあぶり出すという方向性が多く、三輪=ラムザイヤーのように「メイン・バンク論は幻想だ」という全否定する論者はきわめて少数です。

私は経済学者でも何でもありませんが、理論的な枠組みと実務における経験の両面から、やはり「メイン・バンク論は幻想だ」というのは、言い過ぎ何ではないかと思っています。

けれども、メイン・バンク万能論に与するものでもありません。

・・・というわけで、私は、メイン・バンクによるガバナンスというのは存在していて、それは、少なくとも80年代までは、経営者の私的利益の追求の防止という意味では米国における敵対的買収による規律と同程度には効果的なものであった・・・と考えているんですが、その辺りの理論的枠組みと根拠について、ちょっとまとめてみようかな、と。

なお、相変わらず記憶と思いつきに頼っているんで、細かいところを意図的かどうかはともかくはしょったり、理論的にあらっぽいところもあったりしますが、ご海容のほどを。

なお、標準的なメイン・バンク論についての説明については興味のある方は、青木=奥野『経済システムの比較制度分析』をお薦めいたします。特に、比較経済制度分析の視点を考えることで、メイン・バンク論や系列による株式持合、終身雇用制度を個別に採りだして批判を加えるという方法論には限界がある(その意味で三輪=ラムゼイヤーの批判のやり方は、青木=奥野の問題意識とすれちがっているようにもみえる)ことも分かるのではないかと思います。

・・・と前置きはこんなところにして。

負債の規律効果
メイン・バンク論のもたらすガバナンス効果には、大きく分けて事前モニタリング、中間的モニタリング、事後的モニタリングの三段階に分かれるのですが、このうち事前モニタリングの有効性については、後で述べるように大きく議論があるところです。

ただ、実は事前モニタリングが存在しないとしても、事後的モニタリングが適切に機能していれば、少なくとも敵対的買収と同程度には経営陣の規律付けは可能です。

これは、一般的に言われる負債の規律効果の賜であって、それ自体は何ら日本固有の要素を含みません。つまり、企業経営が悪化してデフォルトに陥ってしまうと倒産手続に入り経営陣はコントロールを剥奪される・・・それ故に経営陣はデフォルトに陥らない限度で企業経営を効率的に行う規律付けを与えられ、エイジェンシー問題(経営者が自分の利益のために会社を非効率に経営する問題)が緩和されるというのが基本的なモデルです。

このように事後的な状態に応じて経営者からコントロールを剥奪するということによるガバナンスは、状態依存型ガバナンスとも呼ばれますが、本質的には、資本市場における敵対的買収の脅威による規律付けと同じメカニズムです。非効率な経営者が敵対的買収によって地位を追われるのと同様に、非効率な経営者は債権者によって地位を追われるわけです。

ここで一つ重要な含意は、このような形での規律付けにおいては、何も貸し手が年がら年中借り手を「監視」する必要はないということです。

この場合に大事なのは、�@経営の全体的な効率性に対する事後的なモニターを行う意欲、�A経営状況が一定の水準以下に達した場合にはコントロール権が現経営陣から奪われるという制度的な担保、�B経営状況が一定水準以下に達した場合に貸し手が現経営陣からコントロール権を奪うということへのインセンティブ、であって、例えば、当該会社の事業に関する経営ノウハウや個別プロジェクトの(事前)評価能力などは必須条件ではありません。

・・・というわけで、メイン・バンク論に対する批判として、「銀行が多様な業種について、当該企業以上の評価能力を有することはできないし、実際にも、銀行員がそうしたプロジェクトの評価能力を持っていたという証拠はない」ということが言われますが、これは必ずしもメイン・バンク論の中核である状態依存型ガバナンスを否定する論拠にはなっていないように思われます。


なぜ日本が特殊なのか?
このように負債の規律効果そのものは理論的には日米の違いはありません。しかし、歴史的な経緯や国民の性向から直接金融による資金調達が相対的に困難であり、借入への依存率が高まった、あるいは、明治期の財閥と政府との密接な関係が作用した、etc...いろいろな理由付けはありえますが、何れにせよ、借入への依存率が高まったという事情自体は、そうした日本固有の背景があり、逆に、アメリカでは巨大金融資本への敵視が強く、商業銀行の資金調達能力が低かったという歴史的経緯故に株式市場への依存度が高まった・・・こうした選択は、必ずしもどちらが合理的というのではなく、歴史的な状況に依存して生まれてきたものだと最近は考えられています(経路依存性(path dependence))。

もっとも、企業の資金調達における借入比率が高いというだけでは、上にあげた�@から�Bはうまく機能するとは限りません。いくつかの理由がありますが、最大のものは「外部性」(externality)あるいは「フリー・ライダー問題」です。、

つまり、事後的モニタリングや経営危機時のコントロール権移動には多額のコストがかかります。このコストは一人の貸し手が被りますが、その利益である効率的な経営の成果は全ての利害関係者に分配されてしまいます。
このような状況の下では、それぞれの貸し手でみると、モニタリング等に要するコストがそれによって得られるベネフィットに見合わない場合もあり得ますし、例え見合う場合でも、合理的な貸し手にとっての最適な戦略はWait & See、要するに他の誰かがそうしたコストを負担してくれるのを、じっと待つ・・・けど、結局誰もやらないということになります。

アメリカの破綻企業の整理手続が、貸し手間の協調による私的整理手続よりも大口債権者による他の債権の(ディスカウント)買取という形で行われ(全ての債権を買い取れば、再建の利益はその債権者に帰属するのでフリー・ライド問題は生じませんね)、買取価額 がまとまらない場合には法的倒産手続に入るのは、こうしたフリー・ライド問題の大きさを示していると考えられるわけです。
これに対して、日本ではつい最近まで大口債権者による買取や法的倒産手続の利用は比較的少なく、多くは私的整理の中での銀行間の協調で行われているという こと自体が、裏から見れば、何らかの外部性やフリー・ライド問題の解消メカニズムを内包していることを暗示しているとも思われます。


日本におけるメイン・バンク論が示唆しているのは、日本の特殊な金融業界の構造が、こうした外部性やフリー・ライド問題の解消に適していたということではないかというのが私の考えです。つまり、高い参入障壁によるプレイヤー数の限定、繰り返しゲーム性、監督官庁を通じた情報の共有・利害調整etc...これらが貸し手の間での協力ゲームを可能にした、と。

終身雇用制との関係
もっとも、銀行間の協調行動が可能だとしても、企業経営が傾き始めた段階で、銀行の人間がいきなり入って、うまく経営を出来る・・・なんていうバラ色のシナリオがあるぐらいなら、さっさと経営者になっていればいいわけで、実際には、貸し手がそうした能力を持っていることは寧ろ稀なはずです。

そうすると、結局、経営危機になっても、現経営陣にズルズルと経営を続けさせる以外の選択肢はなくなってしまい、貸し手による経営権剥奪という「脅し」は信頼されなくなってしまうわけです。

これを解消するのが、終身雇用制によって各企業内に蓄積されたり、あるいは、固定的な取引関係によって系列内に蓄積された経営者予備軍の存在だったのではないかと思われます。こうした経営者予備軍のプールがあれば、貸し手は自らが経営能力を持たなくても、借り手社内や、あるいは系列内の隣接業種企業から現経営陣に代わるマネージャーを連れてくればいいわけです。

この意味で、終身雇用制というのがメイン・バンク論を支えていたというのはあり得ることだと私は思っています。人材の流動化が進んでしまうと、経営危機段階で社内の有能な人材が社外に流出してしまう危険がありますし、また、年功序列による社内的なヒエラルキーがない状態では貸し手が企業内で「次の」経営陣を見つけ出すことは必ずしも容易ではありません。
よくも悪くも、「次の」順番は誰かというのが、ある程度決まっており、その限られた選択肢の中から選べばいいという日本的な昇進制度は、貸し手による効果的なガバナンスを助けていたのではないでしょうか。

実証的には?
ところで、こうした仮説を述べてきましたが、実証的にみても、メインバンクを持つ企業では業績に応じた経営陣の交代や外部取締役の選任がみられるなど、少なくとも経営者交代を促進しているという結果は、1980年代までのところで見ると、かなり強固に見られるといわれます(孫引きになってしまいますが、例えば内田・小佐野「日本における銀行モニタリングのガバナンス機能」花崎=寺西編『コーポレート・ガバナンスの経済分析』241-243頁の文献といったあたりで)。

従って、こうした負債による状態依存型ガバナンスが日本ではよく機能していたという考え方は、私には、かなり説得的であり、また、実証的にも指示されているように思われます。

ところで、三輪=ラムザイヤーは、メインバンクが3年連続赤字の上場企業においてメインバンクが出資比率を減らしていることを指摘して、事後的モニタリングが機能していないということを示唆しているようにも読めるのですが・・・少なくとも80年代の日本においてメインバンクが「支援」をしたのに、3年連続赤字を継続するということは、当時のメインバンクのレピュテーションの観点からすると考えがたいところがあり、このサンプルの選択の仕方の時点で、最早救済のしようがないほどひどい企業か、メインバンクが支援の条件として提示した経営陣の刷新等を受け入れなかったために支援を受けられなかった企業のいずれかというselection biasが生じている可能性があるような気がします。
また、こうしたselection biasの可能性を措いたとしても、破綻が確実になりつつある企業においてメインバンクの融資量が少なくなること自体はメインバンクが「先に逃げた」ことを意味しません。問題は引き上げる融資の内訳であり、絶対的な融資量が少なくなったとしても、その過程で有担保貸付から無担保貸付への転換がおこなれていたり(住専ではこれが行われたわけですが)、最終的な整理段階で有担保債権の放棄がなされれば、他の銀行への「裏切り」にはなりません。むしろ、私的整理の段階では、有担保部分と無担保部分の割合、更には最終的な配当率というのが非常に重要なはずで、そこを無視して融資額の多寡のみを議論しても、メインバンク仮説の否定にはなっていないような気がするところです。
まあ、元のデータや仮説の検証の仕方を見ていないので、余り強くはいえないんですが・・・

もっとも、メインバンク論の中での事前モニタリング機能のところになってくると、ちょっとクビを傾げたくなるところもあるんで、その辺りは次回ということで。