CNET Japan Blog - 渡辺聡・情報化社会の航海図:07年冒頭に(1):ポスト・ポストモダンとしてのプレモダン

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January 1, 2007 3:51 PM

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経済のありようは人の思いが集積して形作られる。半ば祈りも込めてであるが、実務的な実感を伴って、そのように世の中を捉えている。
 
語られる言葉に、世の中がどのように表現されているのか。既に出てきつつあるものを再認する場合ももちろんあるが、村上春樹の『風の歌を聴け』が80年代を鮮やかに予言したように、来るものが先んじて語られていることも少なくない。

大袈裟な言葉を選べば、どのような世界認識が受け入れられようとしているのか。実装の軽いものから新しいものの形は表れる。ネットワークの末端から、ごくごく一部の個人から。兆しはたいてい小さく狭いところから始まる。
 
 
情報化社会のその先
 
2006年後半から、自身の体制作りと並行する形でネットやメディアの行く先、この先世の中の先行きの整理を行っている。どのような構えが自然に動けるのか、世の中から必要とされているのか。以前のものと異なるのならどこが違うのか、違うのはなぜなのか。文字通り行ったり来たりしながら話し合っている。
 
情報関連技術という本Blogの本旨のテーマももちろんあちこちで顔を出しているが、プレモダン経済という言葉が議論の合間にたびたび出るようになっている。その使われ方に際して周辺情報を手繰っていると、『狼と香辛料』及びその書評にぶつかった。ちなみに、先に書いておくと作品としては、このクラスとしてはそこそこ良く出来た佳作というのが正当なところではないだろうか。
 
位置づけについては引用した方が早いので引きながら整理したい。ちなみに、評者の読みと、持っている前提は近い。読書体系は異なるが皮膚感覚としては似たようなところを見ている。

これらの作品においては前述したロマン主義的なタイプの小説にみられるような主人公(たち)の自意識の歪な抑揚を峻拒するがごとく、どこまでもフラットな認識(悟性)の地平を創出すべくプレモダンな世界観が要請されているといえるだろう。世界は主体(人間)の再帰的な自由意志(理性)によって変形されるようなものではなく、すべては認識しえるように認識しえるまま存在する、そしてその認識による把握の外部にあるものは必然的に人智を超越した「魔術的」な作用にほかならない――本作の著者をはじめとする現代のプレモダン的な世界への親和性が高い書き手が一貫して表明しているのはまさしくこのような世界認識である。


本作品は、中世末期の商人の世界を舞台として編まれている。神の絶対性が崩れ、貨幣経済が世に浸透し始めた頃、教会権力から都市経済、自然科学に世の焦点が移ろうとしているところに世界設計が置かれている。とはいえ、ニーチェをして神の死を語らせるほど行ききってしまってる訳ではなく、新旧の価値観がせめぎあいを起こしている程度となる。
 
技術は行き過ぎると、中身が分からなくなり一般人からはその仕組みが見えなくなる。文字通り、一般レベルの人智を超えたものは魔術といっても差し支えない。あるいは、それは小さいレベルで神と呼んでも良い。科学の行き着く先には通常の教育課程とのギャップ分だけ魔法が出てくる。
 
80年代以降のソフトウェア企業の巨人の提示したイメージは「王国」だった。ゲイツ、エリソン、マクニーリー。国には国王がおり、采配を振るい領土と派遣を争う。
 
2000年以降、メディア企業と似た動きをするYahoo!やIACという帝国型の企業と異なり、一部であるが内部に神を宿す(と、実際はそうかはともかく周囲の表現として)企業イメージが提示されるようになってきた。筆頭は言うまでも無くGoogleになる。
 
神が死に、人の世の末に人が生み出したものは人工の神様だった。何かの作品のモチーフにするにはあまりに使い尽くされた構図であるが、くるっと一回りして行き着いた先はどうもこの辺りではないか。
 
神様は数理と数式で出来ている。
 
 
認識範囲の拡張
  
メディアに制限のある場合、世の中は文字通り身体的に「手の届く範囲」とコンパクトにまとめられたメディアパッケージが世界認識の全体となる。交通機関、特に意思に従って進む自動車を中心にしての身体拡張はもちろん加味されるが、物財流通はともかく、情報とメディアの文脈上で占める位置はそう大きくない。少なくとも今日時点においては。
 
ところが、ネットワークが張り巡らされて情報の流通が開放されると、セントリックな構造のメディアは成立しにくくなる。つまり、初期はリンクを辿って辿って「手の届く範囲」を、途中からはサーチエンジンが全てに手を届かせる魔法のツールとしてあらゆる情報へのアクセスと平たく平坦にしていく。
 
つまり、様々な意味で手の届く範囲と、いわゆるメディアのまとめたパッケージ、技術によって編み上げられた限りなく平らにどこまでも続く情報空間という3層に情報は分かれて捉えられるようになる。
 
日本で言うなら全国紙と民法地上波が象徴しているようなマス型のメディアパッケージは、なんとなく、”最大公約数いま必要な情報はこれだけ”という境界と共通認識を生み出す。新聞のラテ欄を広げて、リモコンを片手にチャンネルをあちこり切り替えるとなんとなく今日一日のことを把握して頭の中に整理することが出来る。世の中全体となんとなく掴んだ気になる、というのが利用者の効用と言える。
 
科学が世の中を統べ、全てと認識制御統合出来るという在り様は実に近代的な仕組みではないか。
 

狼と香辛料』の著者は、そのような葛藤とはまったく無縁の場所にいる。そして、だとするなら彼の数理的な世界認識が前に述べたプレモダン的な世界設定と通底していることもまた、明らかだろう。いずれにしろ、この小説はさまざまな側面で「近代的」な価値意識からは隔絶した地平にあるのだ。あえていうならば、こうした諸々の設定やイメージが過不足なく一つの構造を形作りながら、かつエンターテイメント小説としても安定した達成を示していることに、本作の魅力があるだろう。思えば、本作の冒頭を飾る見渡す限りに広がる平らかな麦畑のイメージは、まさしく二〇〇〇年代の現代文学を取り巻くプレモダン/数理的な世界観を鮮明に写し取っていた。「ゆらゆらと揺れる麦穂の間から見える秋の空は何百年も変わらないのに、その下の様子は実に様変わりをしていた」(一三頁)。そのような広大な麦畑の只中に、『狼と香辛料』は佇んでいる。作中の説明によれば、「香辛料」とは「商人」のメトニミー(換喩)である。「狼」(=伝承)と「香辛料」(=数理)。現代文学がいま必要としている想像力の類型を、『狼と香辛料』もまた、雄弁に物語っているのだ。


理屈の上ではあらゆる情報に手が届くような環境が整い、暇の許す限りテキストでも(Blog)動画(動画サービス)でもコミュニケーション(SNS)でも没頭し続けることが出来る。探索の出来る範囲は果てしなく続き、世界はどこまでも広がっている。ここ数年で一般個人に届けられた情報環境認識はこんなところとなる。
 
ポイントはもちろん、暇の許す限り、というところになる。理屈の上では全部手が届いてもそのような暇は人間には作り出せない。口コミかレコメンドか自分で探した結果かは分からないが、何かのきっかけに出会い消費を選択することになった情報以外はあることさえ知らないか、あることは知っていても実際には手の届かないものとなる。それはまるで分かれ道を右に行ったがために左に行ったら見られただろう街並みを見られずに伝聞からその姿を思い描いていた商人たちのようではないか。
 
王の時代は終わりを告げ国と領土は少しずつ開かれる。経済の手の届く範囲で、どこまででも行ける選択肢を人は得た。しかし、徒歩と馬、あるいは船でその身が行ける範囲は小さなものでしかない。世界全部をその手に乗せることは絶対に出来ない。身体が届かない。
 
情報は溢れ、ネットワークは開かれる。世の取り決めの範囲で公開されている範囲でどこまででもコンテンツを得られる選択肢を人は得た。しかし、その手と目で手繰れる範囲は所詮小さなものでしかない。ネットワーク全体を見通すことはもはや出来ない。脳が届かない。
 
 
フラット化とクラスター化
  
フリードマンを絡めるのなら、レクサスとオリーブからフラット化する世界という表現に連なるだろう。しかし、彼の認識の仕方はどちらかというと国と機構を中心としたものに寄っている。
(少し考えるとその理由は当たり前なのだが、本稿では割愛する)
 
現実を見ると、ネットの世界だけ見ても政治経済を中心に文化まで繋がりの強い日本が米国に似た形を一部取っているが、近場の韓国中国の市場構造は米国のものとは異なる。グローバル経済の共通指標はあれ、市場内のプレイヤーは一緒くたに考えるよりも個別で捉えた方がやはり良い。
 
年の後半、シンクの森さんと何度か会う機会があり、掲題のテーマ周辺について意見交換を行っていた。これらのローカル化あるいはクラスター化の先にもう一歩踏み込むと、制度や仕組みよりも、個人の側から一式整理して全体を捉えなおした方がすっきり早いのではないかというのがなんとなくの共通認識になっている(みたいである。明示的に合意したものではない)。
 

  
モダンとポストモダンと通り越してプレモダンが、同時に天動説から逆に触れ戻って地動説が出てきてるのではないだろうかというのが当座の取り扱いテーマとなっている。もちろん、これらは単純に昔語りなどではない。

四季と暮らしが穏やかに語られる「ARIA」の舞台はテラフォーミングされた火星という未だ届かぬ未来になっている。