MSN-Mainichi INTERACTIVE 書評・今週の本棚

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 ◇普通大国と文民国家の分岐点で

 経済学にマクロ分析とミクロ分析がある。それとは趣を異にするが、政治学や歴史学にも双方のアプローチがある。実証的なケース・スタディや政治過程の分析はミクロであり、着実で有益な研究が多い。しかしミクロ研究の総和によって全体像が明らかになるものではない。ミクロ研究はますます精緻・厳密に、限定された局面に焦点を絞る細分化の傾向がある。全体の姿をつかむためには、はじめから大づかみに全体構成を語る視点と手法を必要とする。そして、これは労働さえ集約すれば誰でも出来るというものではない。全体感覚ともいうべき視座の成熟を必要とする。本書の著者は、理論と実態にまたがる該博な知識、そして細部に拘泥せず大胆に斬新な見方で言い切る骨太の知力によって、政治外交のマクロ分析を行う適格者である。

 マクロ研究の多くは、米欧で開発された理論や分析方法に依拠して論ずるものが多いが、本書は違う。著者はすでに50冊の著作を出版しているが、本人および内外の研究者によるミクロ・マクロの先行研究をいわば部品として、著者自身の判断を自在に語る。副題の「9・11後の日本外交」を時間的にも空間的にもはるかに上回る広汎な問題が論じられている。

 高度成長の60年代、危機の70年代、繁栄の80年代というように、通常は10年きざみの戦後史を、われわれはイメージしている。本書はキッシンジャーの指摘をヒントに15年きざみの日本外交の展開を示す。終戦から60年安保までは親米・反米の対立期、サミットが始まる75年までは吉田路線の定着期、冷戦終結までは「アメリカ主導国際システムの積極的支持」時代とする。

 面白いのは冷戦終結後である。1990年から2005年までの15年間を、本書は「グローバルな文民国家」路線の時代とし、これからの15年を「普通大国」化に向う時代との仮説を提起する。

 戦後日本の軌道を設定したのは吉田茂であった。吉田路線は、戦後日本が日米基軸の下で軽軍備のみを持ち、経済国家として再生発展する道筋であった。それは長く戦後日本のコンセンサスを形成し「吉田ドクトリン」とまで呼ばれた。ところが冷戦終結後、その分解が始まった。一方で日本は国際協調的な非軍事大国、グローバル・シビリアン・パワー(船橋洋一)たるべしとの構想が、他方で日本は戦後平和主義の不決断と惰弱を清算して「普通の国」(ノーマル・ステイト)たれとの主張が、たとえば小沢一郎らによって提起された。日米同盟を実質化し、日本は米国とともに国際秩序維持に名誉ある役割を果すべきだとの立場がリアリストによって説かれるようになった。つまり、吉田ドクトリンの構成要因として収っていたリベラルとリアリズムが分離独立し、あい反する二つの路線として対峙し始めたのである。

 本書はこの二つの流れを、むしろ「グローバルな文民国家」から「正義を求める普通大国」へという発展局面としてとらえ、現時点をその分岐点としているのである。

 今後の日本は、自衛隊をインド洋、イラクへと派遣した9・11後の展開をさらに進めて「普通大国」へ勇気をもって踏み切るべきか、あるいは本書が終章で論じているような軍縮や人間の安全保障的な役割を担う文民国家を基調とするか、もしくは二国間主義を土台としつつ多国間主義をこなし融合させた日本外交という本書の分析を敷衍して、「文民国家」と「普通大国」の併用・融合を志向するのか。文明的な選択を、本書の多岐にわたる豊かな指摘を参照しつつ考えるべき時を迎えているであろう。

記事全文

今週の本棚:五百旗頭真・評 『国際政治の見方−−9・11後の…』=猪口孝・著

 ◇『国際政治の見方−−9・11後の日本外交』

 (ちくま新書・861円)

 ◇普通大国と文民国家の分岐点で

 経済学にマクロ分析とミクロ分析がある。それとは趣を異にするが、政治学や歴史学にも双方のアプローチがある。実証的なケース・スタディや政治過程の分析はミクロであり、着実で有益な研究が多い。しかしミクロ研究の総和によって全体像が明らかになるものではない。ミクロ研究はますます精緻・厳密に、限定された局面に焦点を絞る細分化の傾向がある。全体の姿をつかむためには、はじめから大づかみに全体構成を語る視点と手法を必要とする。そして、これは労働さえ集約すれば誰でも出来るというものではない。全体感覚ともいうべき視座の成熟を必要とする。本書の著者は、理論と実態にまたがる該博な知識、そして細部に拘泥せず大胆に斬新な見方で言い切る骨太の知力によって、政治外交のマクロ分析を行う適格者である。

 マクロ研究の多くは、米欧で開発された理論や分析方法に依拠して論ずるものが多いが、本書は違う。著者はすでに50冊の著作を出版しているが、本人および内外の研究者によるミクロ・マクロの先行研究をいわば部品として、著者自身の判断を自在に語る。副題の「9・11後の日本外交」を時間的にも空間的にもはるかに上回る広汎な問題が論じられている。

 高度成長の60年代、危機の70年代、繁栄の80年代というように、通常は10年きざみの戦後史を、われわれはイメージしている。本書はキッシンジャーの指摘をヒントに15年きざみの日本外交の展開を示す。終戦から60年安保までは親米・反米の対立期、サミットが始まる75年までは吉田路線の定着期、冷戦終結までは「アメリカ主導国際システムの積極的支持」時代とする。

 面白いのは冷戦終結後である。1990年から2005年までの15年間を、本書は「グローバルな文民国家」路線の時代とし、これからの15年を「普通大国」化に向う時代との仮説を提起する。

 戦後日本の軌道を設定したのは吉田茂であった。吉田路線は、戦後日本が日米基軸の下で軽軍備のみを持ち、経済国家として再生発展する道筋であった。それは長く戦後日本のコンセンサスを形成し「吉田ドクトリン」とまで呼ばれた。ところが冷戦終結後、その分解が始まった。一方で日本は国際協調的な非軍事大国、グローバル・シビリアン・パワー(船橋洋一)たるべしとの構想が、他方で日本は戦後平和主義の不決断と惰弱を清算して「普通の国」(ノーマル・ステイト)たれとの主張が、たとえば小沢一郎らによって提起された。日米同盟を実質化し、日本は米国とともに国際秩序維持に名誉ある役割を果すべきだとの立場がリアリストによって説かれるようになった。つまり、吉田ドクトリンの構成要因として収っていたリベラルとリアリズムが分離独立し、あい反する二つの路線として対峙し始めたのである。

 本書はこの二つの流れを、むしろ「グローバルな文民国家」から「正義を求める普通大国」へという発展局面としてとらえ、現時点をその分岐点としているのである。

 今後の日本は、自衛隊をインド洋、イラクへと派遣した9・11後の展開をさらに進めて「普通大国」へ勇気をもって踏み切るべきか、あるいは本書が終章で論じているような軍縮や人間の安全保障的な役割を担う文民国家を基調とするか、もしくは二国間主義を土台としつつ多国間主義をこなし融合させた日本外交という本書の分析を敷衍して、「文民国家」と「普通大国」の併用・融合を志向するのか。文明的な選択を、本書の多岐にわたる豊かな指摘を参照しつつ考えるべき時を迎えているであろう。

毎日新聞 2006年1月22日 東京朝刊