東アジア共同体を考えるヒント 内田樹の研究室: 靖国というコントローラー

内田樹さんのサイトは面白いので見ているが、この記事にも頷いた。

リンク: 内田樹の研究室: 靖国というコントローラー.

2005年08月16日

靖国というコントローラー

15日には小泉首相靖国参拝がなかったようである。

宮崎さんと握っていたら100万円持って行かれるところであった。

剣呑剣呑。

宮崎さんの解説では、8月末の6カ国協議の終わりに共同コミュニケが出るところまでは、これ以上東アジア情勢に混乱をもたらしたくないアメリカから小泉首相あてに「協議が終わるまでは靖国に行くな」というつよい要請があったから、ということであった。

これは納得のゆく説明である。

これまでも繰り返し書いているように、日中・日韓関係でのプレイヤーのふるまいを二国間の文脈だけに限定して見ても理解が届かない場合がある。

その場合は、別のプレイヤーの存在を勘定に入れなければならない。

アメリカの東アジア戦略は、「日中韓三国が戦争に至らない程度のフリクションを抱えたまま対立し、決してブロック形成に至らないこと」である。

だから三国間の緊張が高まればとりあえず鎮静を策し、友好関係が進展しかかると波風を立てるという「キャロット&スティック」外交を展開している。

アメリカの東アジア外交方針は首尾一貫して「首尾一貫していない」ということである。

「どっちつかず」の不安定状態というのは、ごくわずかな入力変化で機敏に状況に反応できるので、盤石の外交方針を教条的に死守しているより実ははるかに戦略上有効なのである。

その点でアメリカ外交はアングロ=サクソン帝国主義の血を豊かに受け継いでいる。

小泉首相靖国参拝をアメリカが「看過」しているのは、ラスク国務長官の「東アジア共同体の形成を許さない」という発言とセットにしてはじめて理解が届くふるまいである。

日中韓の関係がつねに不安定であることからアメリカはこれまで大きな利益を引き出してきた。

しかし、アメリカが抱えている「現場」は東アジアだけではない。

政情不安定なイラクがあり、ガザ地区からの撤兵が始まったイスラエルがあり、宗教的反動が進むイランがある。

いくら不安定要因がある方が戦略上好ましいといっても、マネージできるリスクには量的な限度というものがある。

とりあえず「しばらくのあいだ」東アジアは鎮静していてもらいたい、というのが今のアメリカの本音である。だから靖国参拝にストップをかけた、というのが宮崎さんの解説であった。

なるほど。

もっともなご説明であるが、私はこれ加えてもう一つのファクターがあるのではないかということを思いついたので、それについて書いておきたい。

首相の靖国の「ゴー・ストップ」は合衆国国務省の許諾を得て行われている。

私はつねづねそう考えている。

自国将兵の戦死に責任があるはずのA級戦犯が合祀されている神社に同盟国の首相が参拝するという「非礼」をアメリカがこれまで許してきたのは、それによってアメリカが心理的な不快を上回る政治的利益を得ているからである。

いかなる利益か。

それはメディアが報じるとおり、その点滅ひとつで東アジア情勢が操縦できるような「スイッチ」を手に入れたということである。

ジェームズ・エルロイの小説に、警察の夢は殺人も麻薬も売春も賭博も、すべての犯罪が単一の巨大犯罪組織によって統御されて行われることであるという言葉があった。

その場合は、警察は単一組織を監視するだけで犯罪の全体をコントロールすることができるからである。

危機には「デインジャー」と「リスク」の二種類がある、という話は前に書いたことがある。

デインジャー」は統御不能の危機で、「リスク」はマネージしたりヘッジしたりできる種類の「危機」である。

政治の要諦は「デインジャー」を「リスク」に書き換えることであるということも申し上げた。

その書き換え方は犯罪の場合と同じである。

「大きなデインジャー」が「小さなデインジャー」を、磁石が鉄粉を吸い寄せるように併呑して、「単一の危機」になるというしかたでそれは実現する。

「人民の大海」を泳ぐスタンド・アローンのテロリストたちの群れは統御不能の「デインジャー」である。

だが、国際的ネットワークを形成し、中枢的な本部を持ち、「領土」を占有した場合、それは仮に動員兵力や火器の量や資金力において巨大なものとなっても、すでに「リスク」に変換されている。

いささか古いタームを使って言えば、「リゾーム」状態の運動を「ツリー」状態の組織に転換すること、すべての矛盾が一点に集約しているような「偏りの場」を作り出すこと。

それが「統御不能のデインジャー」を「統御可能なリスク」に変換するさしあたりもっとも効果的な方法である。

「社会矛盾のすべてはただ一点(プロレタリア)に集約される」という知見を最初に政治技術として説いたのは『へーゲル法哲学批判序説』のカール・マルクスであった(こういうところにマルクスの天才性は存する)。

もちろんこれは「つくり話」である。

「つくり話」なんだけれど、「そうだ」と言われ続けると、「そうかも」と信じてもらえるような種類の「つくり話」なのである。

東アジア情勢において、輻輳する矛盾を「ただ一点」に集約する「点」があると、それを操縦する権利を握っているプレイヤーは状況にたいしてかなり効果的なイニシアティヴを握ることになる。

小泉首相とアメリカ国務省は「靖国」をこの「スイッチ」にするという妙手をどこかで思いついたのである。

何度も何度も「よせばいいのに」というタイミングでそのスイッチを押し続けて世論を刺激しているうちに、ついに人々は「首相が靖国参拝すると激怒し、しないと無反応」というパブロフの犬的条件反射に慣らされてしまった。

そして8月15日、首相は満を持して「参拝しない」で、友好的なポーズの「談話」を発表する。

参拝を既成事実のように論じてきた日本のメディアや中国、韓国のナショナリズムは振り上げた拳のやり場に窮して呆然としている。

みごとなものである。

これをして「先手を取る」という。

武道でいう「居着き」とは、広義には「ある対象やある文脈に意識が固着して、それ以上広いフレームワークへの切り替えができなくなってしまうこと」を意味する。

いまの場合のように、ある特定の対象に関心が集中し、それ以外の回路からの情報入力が低下するのも「居着き」の一種である。

つまり靖国に世界の耳目を集めるというかたちで小泉首相とアメリカ国務省は東アジアの外交プレイヤーを 「返事を待つ」状態にとどめおき、これを統御可能な「リスク」化することに成功したのである。

小泉首相というのは今度の郵政民営化解散とその後の「刺客」作戦でも冷血ぶりを発揮したが、アメリカ国務省との二人三脚で靖国を「東アジアのリスク・コントローラー」に利用するという狡知を見るにつけ、本邦の政治家には得難いタイプの策士であることが知れるのである。

このまま推移すれば、総選挙は(自民党ではなくて)小泉首相の「ひとり勝ち」となるであろう。