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選挙結果から未来を構想するための文章を書きました

投稿者:miyadai
投稿日時:2005-09-23 - 14:23:40
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

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過剰流動性に無自覚に棹さす段階」から「過剰流動性の不安に動転する段階」を経て「過剰流動性の不安に支配されない再帰的段階」へという政治的意味論の将来を映画『NANA』に見る
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■総選挙が自民党の圧勝で終わった。NHKの調査(9月20日発表)によれば、自民党の支持率は5割弱にまで及ぶ一方で、勝ち過ぎだとの印象を持つ割合も6割弱いる。圧勝の 背景については後追い的な分析がなされているが、私が選挙前に公開した分析の枠内だ。

【選挙期間「前」の、選挙「結果」分析】
■私の公式ブログ(http://miyadai.com)に選挙の二週間前に掲載した拙文を以下紹介する。選挙のキーワードは農村型保守=旧保守、都市型保守=新保守(新保守主義ではない)、都市型リベラルの、三つだ。小泉支持層のメインは旧保守でなく、新保守=都市型保守だ。
■90年代を通じて前者から後者へと地殻変動した。「新しい歴史教科書をつくる会」「2ちゃん右翼」に象徴される。過剰流動性と生活世界空洞化で不安になり、「断固・決然」に煽られるヘタレ右翼。旧保守と違い、天皇尊崇とも団体的動員とも無縁で、都市無党派層の一角を占める。
■他方、自民党を離党した亀井氏や綿貫氏は旧保守=農村型保守。集権的再配分を目指すので左派的だ。再配分を望む地方の弱者が旧社会党でなく旧自民党を頼るのは当然。だから自民党政治が続き、小選挙区制でも二大政党にならなかった。それも小泉氏で変わった。
■実は、旧保守と同じ地殻変動が旧左翼勢力を襲った。旧保守が団体的動員(土建屋的動員)を頼るのと同様、旧左翼も団体的動員(組合的動員)を頼る。地域共同体の空洞化が土建屋的動員を弱々しくしたのと同様、会社共同体の空洞化が組合的動員を弱々しくした。
■地域共同体の空洞化も会社共同体の空洞化も、社会的流動性を高め、不安な浮動層を生む。田舎の住民であれ、彼らは広義の都市民だ。地域共同体のブン取り(バラマキ政治)も会社共同体のブン取り(組合主義)も彼らに関係ない。故に彼らを都市的弱者と呼べる。
■小泉氏はバラマキ政治に未来はないと主張してきた。正しい。財政赤字を積むバラマキ政治はモノ言えぬ子孫からの収奪だ。倫理的に許せない。だがバラマキ中止と弱者放置は別問題。都市的弱者は小泉流「決然」にカタルシスを得ても、その後幸せになれはしない。
■そこに都市型保守への都市型リベラルの対抗可能性がある。都市浮動票を取り合う今日的な二大政党制。現に小泉自民党は都市型保守政党に脱皮した。だが民主党は都市型リベラルへの脱皮に失敗した。民主党が今春、郵政公社継続を打ち出した時点で、勝負あった。
民主党のなすべきは二つだ。第一に都市型リベラルの政党アイデンティティを示せ。「小さな政府」が「弱者切捨て」を伴うべからずと主張。都市的弱者たる非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を訴える。フリーターがフリーターのまま幸せになれる社会へ。
■第二にアマルティア・センの言う「ケイパビリティ」を主題化せよ。見田宗介氏が8月16日付『朝日新聞』で日本は経済水準が高いのに「とても幸せ」と答える割合が大層低いと指摘した。センによれば、経済が豊かでも幸せでないのはケイパビリティの乏しさ故だ。
■ケイパビリティとは、現実化し得る選択肢の豊かさ。日本は、多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性、要は多様な人生を、選べそうで選べない。制度的に選べない(規制だらけ)のみならず「主体の能力が低いから」選べない。だから鬱屈が拡がるばかりだ。
■鬱屈した彼らを吸引するのが、不安と男気のカップリングだ。不安を煽って、鎮められるのは「断固」「決然」の俺だけだと男気を示す。20年前の英米ネオリベ路線でも石原都政誕生でも見られた、都市型保守の定番的動員戦略だ。「不安のポピュリズム」と呼べる。
■これに対抗するのがケイパビリティの主題化だ。只でさえ流動性の高まる後期近代。都市型保守の「不安のポピュリズム」は動員コストが安価で、公示期間の勝負なら「不安のポピュリズム」に勝る戦略はない。だからこそ民度上昇を図る日常の「教育と啓蒙」が重要だ。
■バラマキはダメだから壊す小泉流は明瞭だ。民主党が「壊し方が間違ってる」と訴えるのは稚拙。郵政法案が出鱈目でも、出鱈目な法案による旧勢力の一掃に国民が快哉を叫ぶ。ならば「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべし。
■然るに何を作るかの評価は民度次第。不安の回避ばかり関心を持ち、幸せの質に無頓着な国民は、民度が低い。不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる。それがリスペクトに値する生き方だと感じる国民がどれだけいるか。

【過剰流動的な後期近代と、新二大政党制】
■以上の分析を8月25日に公表した。現在は9月22日。一ヶ月経ったが修正の必要はない。補うならば、『サイゾー』誌上の宮崎哲弥氏との対談連載で述べた通り、各国同様に「都市型保守」を通過せずして、「都市型リベラル」は育たないだろう。この点を補足しよう。
■不安と不信が高まろうが国際競争に遅れじと“グローバル化&効率化”を目指す「都市型保守」。多少非効率でも内発性や信頼のベースたる自立的相互扶助を護持せんと“自治&補完”を目指す「都市型リベラル」。双方が都市浮動層を綱引きする「新二大政党制」。
■「都市型保守」のみでは、ハリケーン騒動で支持率3割に落ちたレームダック(死に体)ブッシュ政権に象徴される「新米国病」を回避できず、「都市型リベラル」のみでは高失業率に象徴される「欧州病」を回避できない。全ての国が同様な綱引きを必要としてきた。
■私は小泉政権誕生直後から「20年遅れのネオリベ路線」と呼ぶが、70年代までの欧州福祉国家体制に対応する自民党の集権的再配分政治からの脱却が始まったばかりの日本。既得権益破壊にだけ注意が向くのも自然だが、それが長く続き過ぎると国はむしろ荒廃する。
■この回避不可能なコストを、しかし出来る限り低く抑えるべく、「都市型リベラル」の成長を促す必要がある。先日上梓した私の編著『サブカル「真」論』では、そのために必要な民度上昇を、サブカルチャーのコミュニケーションが支えるだろう/べきだ、と強調した。
■長野県に好例を見出せる。田中康夫知事の誕生直後、彼に票を入れた主婦らの聞き取りをした。実に面白い答えが返ってきた。彼女らは言う。十年前なら下半身スキャンダルに満ちた田中氏に投票しなかった。でもコギャル&援交の90年代を経て感じ方が変わったと。
■ある主婦が言う。《一穴主義だが人を幸せにできない男。多穴主義だが人を幸せにできる男。どちらがいいか。昔は前者だったけど今は後者ね。人を幸せにできる男と付き合いたい。現に、人を幸せにする力があるからこそ彼に次々と女性が近づくんじゃないの》と。
■知事になる前、田中氏は「マニュアルからレシピへ」なるスローガンを高く掲げていた。中身はソクラテスの『フィディアス』そのもの。マニュアル通りか否かにビクビクする不安ベースの「依存」でなく、自らの語感を信頼する内発性ベースの「自立」を、推奨する。
■こうした田中氏の行為態度が、ハナ・アレントが『精神の生活』で推奨する初期ギリシア=プレ・プラトン的な、ルーツ右翼の価値観に連なることは、連載でも繰返し述べた通り。国家主義者のごときヘタレが右翼だと思われているのは、日本的後進性の表れなのだ。


■「不安と不信でなく内発性と信頼が大切だ」とサブカル的な表現活動を通して主張してきた「幸せそうに見える男」が政治家になる──上昇欲求の強い暗い男が政治家になるのが定番だった戦後日本でついぞあり得なかったことが起きた。但しこれは欧州標準なのだ。
■故ミッテラン大統領を見よ。彼には50人の愛人がいた。愛人文化のフランスのこと。マスコミは生前報じなかった。没後、彼が葬儀における愛人たちの席順を決めていたことが報じられた。「さすがミッテラン、人を幸せにする力のある男だ」と、人気が急上昇した。
■「浮気するんじゃないか。自分は捨てられるんじゃないか」とオロオロ・オタオタする、不安&不信ベースのアメリカ流。「別の異性と比較してくれ。それで揺らがぬ愛でなくして何が愛か」と悠然と(?)構える、内発性&信頼ベースのフランス流。どちらが良いか。
■連載で何本か紹介したフランソワーズ・オゾンの各作品を含めてフランス映画は──ひいてはフランス文学は──そうした問いを絶えず交わし合ってきた。リベラルという思想が、ではなく、フランスの歴史が、人々にそうしたコミュニケーションを促しているのだ。
■逆に言えば、映画や文学のコミュニケーションを通じて培われた振舞いの作法なくして、不安&不信ベースより内発性&信頼ベースの生き方のほうが恰好良くてリスペクトに値すると見做すような、初期ギリシア的=ルーツ右翼的=欧州リベラルの価値観はあり得ない。

【政治的意味論の将来を暗示する映画たち】
■要は「弱い犬ほどよく吠える」。ヘタレほど、無頼を気取り、神経質で、強迫的で、不寛容ということだ。表層の不安に惑わされずに「真の心」を見極めたがるフランス定番的モチーフに対し、人々の不安を鎮める「男気あるヒーロー」を愛でるアメリカ定番的モチーフ。
■欧州リベラルの価値観から見ると、米国ネオリベは「ヘタレ犬」に見える。現にそう主張するジャン・マルクバール監督『SEX EL』(01)のような映画もある。この「ヘタレ犬」はしかし、欧州にはあり得ない強い信仰で、過剰流動性下の社会統合を維持してきた。
■日本には過剰流動性下での宗教的な社会統合メカニズムは弱い。不安を鎮める男気を愛でる程度ではいずれ過剰流動性に持ちこたえられなくなる。不安に惑わされない生き方を愛でる価値観と、それを支える非流動的なホームベース(生活世界)が要求される所以だ。
■だが米国流グローバル化に過去15年間無防備に晒されてきた日本では、伝統的ホームベースは完全に空洞化した。だからこそオタオタするヘタレが溢れ、不安のポピュリズムに吸引される。件のホームベースは「ポジティブな都市民」が再帰的に作り出す必要があろう。
■だがサブカルに好材料がある。橋口亮輔監督『ハッシュ』(01)や豊田利晃監督『空中庭園』(05)が再帰的ホームベースを主題化してきた。(既に所在不明の)当たり前に営まれる「標準家族」に対し、意識的に前提を選択する(=再帰的)「変形家族」を愛でる。
■こうした再帰的ホームベースの主題化に続いて、サブカル領域のみならず現実の生き方においても、遅蒔きながら「不安に惑わされない生き方」を愛でる価値観が、急上昇しつつある。それを象徴するのが、携帯サイト「girlswalker.com」周辺の動向だ。紹介しよう。
■このサイトは「マルキュー系」プライベートブランドのモバイルコマース(Web上の集合店舗)。運営母体ゼイヴェルによれば2005年6月時点の日間アクセス数9100万ページビュー、総読者数2660万人に及ぶ。今や「マルキュー系」は「モード系」を完全に凌ぐ。
■8月7日「girlswalker.com 5th anniversary TOKYO GIRLS COLLECTION 2005」が東京代々木体育館で開催された。私の「まぶだち」 の天才・渋谷範政氏が演出するので出かけた。もの凄いハッピー感とポジティブ感に圧倒された。演出も然り。女の子らの佇まいも然り。
■感無量だったのには個人的な思いもある。送り手(デザイナーやモデルやショップ経営者)は20歳代半ばから後半の女性たち。「マルキュー」のカリスマ店員出身者もいる。10歳代半ばから始まる受け手(買い手)は、送り手をロールモデルとしてリスペクトする。
■年少世代からのリスペクトを集める、実業で活躍する彼女らは、かつてギャルと呼ばれ、十年前にはコギャルと呼ばれた「ブルセラ&援交世代」。90年代前半、私はこの世代を集中的に取材していた。彼女らの多くは、「あの頃はホント天下無敵だったね」と振り返る。
■だが彼女らの多くは過剰流動性が引き起こす不安に耐えられずメンヘラー化した。そんな中から、不安に振り回されず、圧倒的にポジティブに生きるロールモデルを示す女性らが出てきた。彼女らは不安と不信に代わり、幸せと信頼を「生存の美学」として賞揚する。
■援交から十年。いろいろあって彼女らは進化した。それを素直に喜びたい。そうした歓迎すべき動きをサブカル領域で象徴するのが大谷健太郎監督『NANA−ナナ−』(05)。映画館にギャルが大集合する姿は、ゴスロリ界での映画『下妻物語』(03)を髣髴させる。
■プロットは矢沢あいの漫画『NANA』と同じだ。主人公ハチにとってナナがロールモデルになる。ハチはやりたいことが何なのか分からず、男の視線が不安で右往左往するヘタレ。ナナは確固とした自分の世界があり、不安にかかわらず意欲に従って前に進む威丈夫。
■映画は連載の前半だけを拾うが、連載はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の如き教養小説の体裁である。即ち「井の中の蛙、大海を知らず」×「可愛い子には、旅をさせよ」だ。いろいろ「旅」をすることで、主人公が元々の存在形式からズレていく。
■この体裁は映画に継承される。主人公はロールモデルの観察を通じて、自らのヘタレぶりが、自己愛に基づく鈍感さに由来すると知り、ロールモデルのタフぶりが、他者に感染し得る敏感さに由来すると知る。鈍感だから右往左往し、敏感だから動じないという逆説。
■この逆説をシステム理論の枠組で記述することもできるが、それはともかく、映画は「観察」による逆説への気づきまでを描き、原作はそれに続いて「行為」の変化を描く。即ち「鈍感だから右往左往するヘタレ」から「敏感だから動じない威丈夫」へ。実に象徴的だ。
■何を象徴するか。二つある。第一に、90年代から引き続く形で、過剰流動的な社会が主題化されていること。第二に、過剰流動性に無自覚に棹さす生き方や、それに引き続く、過剰流動性が引き起こす不安に支配される生き方を、再帰的に観察する視点を得たこと。
■「過剰流動性に無自覚に棹さす段階」から「過剰流動性に伴う不安に動転する段階」を経て「過剰流動性の不安に支配されない再帰的段階」へ。過剰流動的な後期近代に一度「都市型保守」へと振れて「都市型リベラル」へと揺り戻す、政治的意味論の将来を指し示す。

非常に参考になる