内田樹さんのいう「財布の共和国」

東アジア共同体は財布の共和国?

内田さんの舌鋒鋭いですが、

来るべきAUはRépublique des Bourses 「財布の共和国」というようなものになるであろう。

というのは言い得て妙です。でも財布の共和国というのは、アジア通貨危機(1997年)の惨禍を被ったからこそ可能なので、そういった必要は発明の母というか、実際の必要性から歩み始めているのがアジアの特徴でしょう。

ただし、注意すべきは以下の点でしょうか。

1.アジア通貨危機の惨禍の記憶が薄れていくと共同作業の必要性についての認識も薄れていく危険性があります。戦争ではないだけに惨禍の記憶というかそのときに以下にその抑圧というか収拾に苦労したのかという点は折に触れて強調する必要があるかもしれません。

2.財布の共和国では、理念がともすれば後に引っ込み技術的な議論が中心になりがちです。その技術的な議論を引っ張っていく理念は、地域統合とは違った技術的なものになると思いますが、それをしっかりやっておく必要があると思います。

3.財布の共和国を一段も二段も高めるチャンスを自ら捨てるようなことがあってはなりません。アジアにはアジアのやり方があるというのは言い過ぎですが、あり得ると言うのは決して言いすぎではないと思います。

こんなことを考えました。内田さん、ありがとうございます。貴重なヒントでした。

リンク: 内田樹の研究室: 捕虜と戦陣訓.

ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』は第一次世界大戦のフランス人捕虜を扱った物語である。
この中ではドイツ人の貴族(フォン・シュトロハイム)が、同国のドイツ人の無学でがさつな軍人たちよりもむしろ自分と同階級に属するフランス人の貴族(ピエール・フレネ)の学識と趣味に対して深い親近感を示すという「倒錯」が物語の縦糸になっている。
おそらくそれに類する「国境を越えた同種意識」というものがヨーロッパには伝統的に存在するのであろう。
もしかするとEUというような政治構想が可能なのはそのせいかもしれない。

EUの原形的なアイディアはすでにオルテガが1930年に書いた『大衆の反逆』の中で素描しているが、こういうことは「私と同じ程度に理性的に思考できる卓越した知性」とは国境を越えて連携可能であるという確信がなければ思いつくものではない。
フランス語にはRépublique des Lettres (学知の共和国)という言葉がある。
学問のある人間たちは国境を越えてラテン語で自由にコミュニケーションすることができた中世以来の知的ネットワークを指していう言葉である。
ヨーロッパにおいては、伝統的に「階層の差違/知性の差違/趣味の差違」はしばしば「国境線」以上に強固であり、排他的であった。

東アジア共同体(AU)がもし可能であるとすれば、やはりこのEUモデルを踏襲するしかないと私は思う。
だが、アジアの場合はどうやら、それは「国境を越えた金持ち同士の利害の一致」の方が「同国の貧乏人に対する同郷意識」よりも優先するというかたちを取る他ないように思われる(残念ながら、アジア諸国を見渡しても Hommes de Lettres 「知識人」が国政を領導しているような国民国家はどこにもないからである)。
だから、来るべきAUはRépublique des Bourses 「財布の共和国」というようなものになるであろう。
それでも戦争よりはよほどましであるが。